第239回「ストレスを一人で抱え込みながら、表と裏の顔を使い分けた女性の話」
人の心というものは分からないものです。
どれだけ心理学を究めても、恋愛経験を積み重ねても、一人一人が持つ心の深層部分まで解明することは不可能でしょう。
相手の考えていることを知りたい。
相手のこの行動がどういう意味なのかを教えて欲しい。
このような質問を投げかけられる度に、私は模範解答を提供できない困難さを痛感します。
私にできることは、与えられた情報からの推測に過ぎないのです。
それが的を射ているかもしれないですし、全くの的外れである可能性の方が高いかもしれないのは、人の心がそれほど複雑だからです。
表面的に映っている表情と、内面に潜んでいるもう一つの顔とでは、180度異なっていることが往々にして生じます。
いつもニコニコしていて、悩みが一つもないような人間でも、実は誰にも言えずにストレスや孤独を抱えているという場合もあるのです。
前回のコラム は、そのような孤立感を抱えている方に対してのメッセージでした。
そして、今回と次回もその続きになります。
今回は、私が身近で接してきた人間のエピソードになります。
私はこの10年間、男性社員よりも圧倒的に女性が多い職場で働いてきました。
その課程で、人間の表と裏の二面性を、幾度となく垣間見てきました。
まさにリアル版「家政婦は見た」のようなシチュエーションです。
一つだけ印象的だった出来事を紹介します。
もう7年ほど前のことですが、のぶ子さん(仮名)という、とても人当たりの良い年上の同僚がいらっしゃいました。
どんな時も笑顔で、いつも穏やかで誰もに愛想を振りまいていたので、同僚からは、「癒しののぶ子さん」と言われていました。
そんなのぶ子さんですが、職員会議のようなミーティング場面では、決して自己主張をすることなく、黙って他のスタッフの声に耳を傾けていたので、
私からすれば、「本当のところ、のぶ子さんは一体何を思っているのだろうか」と気になっていました。
他にも、2週間に1回は偏頭痛ということで、当日になって体調不良で休みたいという連絡が入っていたので、心配な面がありました。
そして、ある時に、そんな控えめなのぶ子さんの本性を垣間見ることになりました。
のぶ子さんは持ち前のマイペースさから、仕事上で細かいミスを重ねてしまうようなことが頻繁にありました。
その都度上司から苦笑いで指摘されていたのですが、のぶ子さんは「えへへ」という具合に照れ笑いで振舞っていました。
誰もがそんなのぶ子さんを見て、前向きでかわいらしいと関心していました。
しかし、当ののぶ子さんは人知れず、ストレスを溜め込んでいたのです。
事の発端は、のぶ子さんと唯一プライベートでつながっている同僚のけい子さん(仮名)が、私に神妙な面持ちで相談をしてきたことからでした。
珍しく仕事の帰りに二人っきりで誘われたので、恋の予感が芽生えましたが、全くの勘違いでした。
けい子さんは喫茶店に入って周囲に誰も知り合いがいないことを確認すると、本題に入りました。
「口で説明をするよりもこれを見て欲しい」と、真顔で携帯電話を私に突き出してきました。
映し出されたメールの画面を見ると、おびただしい文字の羅列が飛び込んできました。
そこには、上司と同僚へのつらみと愚痴が時系列でびっしりと書かれていました。
唖然とする私をよそに、このメールの送信者が他でもないのぶ子さんであることを知りました。
のぶ子さんからのメールは他にも10通以上あり、それも決まって深夜に800文字を超える分量で送られていました。
一つ一つのメールに目を通しましたが、幸いなことに私とけい子さんへの矛先はありませんでした。
○月×日、今日は上司にまるで鬼の首を取ったかのようにみんなの前で晒し者にされて叱られた。
○月×日、同僚のさち子(仮名)はいつも私のことを見下している。
○月×日、くみ子(仮名)は、ろくにパソコンができない馬鹿のくせに、難癖つけてきて許せない。
あの癒し系ののぶ子さんだとは夢にも思えないようなどす黒い感情のオンパレードでした。
のぶ子さんは、他言禁止を条件に、いつからか一方的にけい子さんにこのようなメールを送るようになったようです。
最初は同情から返していたようですが、次第にあまりにも内容が重くてスルーするようになっていったそうです。
しかしながら、のぶ子さんからのメールは止むことがないのでした。
私はこの事実を知って、一度上司に相談した方が良いのではないかというアドバイスをしましたが、けい子さんは、それはリスクが高すぎるということで躊躇していました。
のぶ子さんがプライベートで送っているメールを、しかも矛先にもなっている上司本人に明かすことによる影響が色んな意味で怖かったようです。
現状打開のために、一度のぶ子さんがメールで憎しみを持っていなかった他の同僚を含めて、食事会を開いたことがありました。
そこで、のぶ子さんの本音を漏らしてもらって、楽になれればという思いがあったのですが、彼女はそこでも一切会社の愚痴はこぼしませんでした。
あくまでも現実とバーチャルの世界とでキャラを演じ切っていたのです。
それからも、職場上では何のへんてつもなく、のぶ子さんはいつものようにニコニコキャラを全うしていました。
まるであの数々のメールが幻だったように。
しかし、のぶ子さんのストレスが積み重なるたびに、けい子さんへのメールは継続していました。
そして、そういう関係にも終わりが訪れました。
きっかけはのぶ子さんが異動になって、職場が変わったことからです。
それから嘘のようにけい子さんへのメールが止まったようです。
けい子さんからすれば、解放感のような感情があったものの、その後を心配していました。
しばらく時間が経って、のぶ子さんのことも過去に変わりつつあったある夏の日に、久しぶりにのぶ子さんの話を耳にすることになります。
のぶ子さんは新しい職場で体調不良を重ねて欠勤が続いていたようで、
げっそりとした表情で出勤してきたのぶ子さんを見るに見かねた上司が、
「無理しすぎじゃないの?」と声をかけたところ、のぶ子さんが激昂して、
「もうやってられない!」とタンカを切って、荷物をまとめて出て行ったそうです。
そして、そのまま退職という流れになりました。
周りの人間は原因が分からずあっけに取られていたようですが、この話を聞いた私とけい子さんは顔を合わせてこう言いました。
誰にも言えずに、仮面を被り続けていて、ストレスの限界を迎えてしまったのだろうと。
のぶ子さんの場合は、メールというツールを使って本心を吐き出すことで、
デトックス作用を試みていたのでしょうが、新天地では理解者が誰も周りにおらず、
我慢の限界が訪れたのでしょう。
のぶ子さんのその後の行方は誰も知りません。
のぶ子さんの件は極端な例かもしれませんが、会社では何の問題もないように見える人間ほど、裏では抱え込んでいる何かがあるものです。
多かれ少なかれ、誰もがそうですよね。
そこまでストレスを溜め込まないためにも、いかに自分を信じてくれて支えてくれる理解者が周りにいるかどうか。
そういう人間がいれば、最悪の事態は免れるものです。
そして、新しい人生のやり直しもできるのです。
次回は有名人の例を上げて、誰もが心を病んでしまう身近な例と、支援者の尊さを説いていきます。
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