第302回「思い込みが判断を誤らせるバイアストリック」
これだけ最高の出し物を用意しているんだ。
みんな楽しみにしているのに違いない。
私が高校3年生だったちょうど今頃の話です。
クラスの文化祭実行委員を務めることになった私は、終了後の打ち上げとして、クラス参加型のイベントを企画していました。
当時テレビ番組でOAされていた「クイズ$ミリオネア」を、クラス内で実現しようと画策したのでした。
構想から準備までに四ヶ月をかけて、念入りに整えました。
司会者役、BGM役を分けて、放課後の教室はもちろん、本番直前は、自宅に彼らを招き入れて特訓を重ねました。
これだけの下準備ならば、必ずやみんな満足してくれるに違いないという確信に近いものがありました。
ところが、そんな私の自信が揺さぶられる出来事がありました。
本番2週間前に、クラス内で実行委員会を開いた際に、クラスメイト達に本番終了後にやりたいリクエストを無記名記入してもらいました。
実名記述や挙手のやり方だと、消極的になることは予想できたので、一人一人の本音を探り出したい意図がありました。
そして集められた意見の中で、一つだけ異質な声が紛れていて、私を激しく動揺させました。
打ち上げはやりたくないです。
私はこの一行を目の当たりにして思わず激高してしまい、声を荒げてしまいました。
誰だ、こんなメッセージを書いたのは!
今更ここで言うなよ!
まるで犯人探しをするかのように、クラスメイト達を隅々睨みつけました。
無論、沈黙の後に名乗り出る者は皆無です。
今までの蓄積をなし崩しにされたような屈辱感から、腹の虫が収まりませんでした。
女子が書いた字であることは間違いなさそうでしたが、無記名であるが故に誰であるかはわかりません。
この時の私は、たった一人の意見ですっかり取り乱していたのです。
これだけ自分達が努力してみんなに楽しんでもらうために頑張ってるんだから、受け入れてもらえて当然だという固定観念に支配されていました。
その後、無事に打ち上げを全うすることができ、あの意見を書いた主も知ることができました。
ある日、主の友人が申し訳なさそうに吐露してくれたのです。
私が憤怒していた姿がよほどインパクトがあったようで、主も罪悪感に駆られていたのですが、自分からは明かす勇気はなかったようです。
その主はクラス全体で盛り上がるような企画に参加すること自体に抵触があったと友人に明かしたようです。
クラスで孤立していたわけではありませんが、物静かでいつも友人数人と過ごしているような女子でした。
私も主とはほとんど会話をしたことがなく、何を考えているのか分からずにいましたが、今回の一件で心の深淵を垣間見たような気分でした。
その時私は失言から主を追い詰めてしまったことが急に恥ずかしくなりました。
あまりにも身勝手だったと後の祭りですが、友人に詫ました。
自分の選んだ選択や考えは多数派であるに違いないという錯覚のような考えを、フォールコンセンサス=誤った合意性と言います。
自分の考えは多数派で、正当であると思い込むことで、安心感を芽生えさせる心理的な特徴を言います。
でも、人は一人一人考え方や捉え方が異なるものです。
一つの意見を取っても、賛否両論があるのが自然です。
フォールコンセンサスに従い続けると、思わぬ落とし穴に自ら陥ってしまうこともあるわけです。
人は結果が出ない時には、このような発想が浮かんでくるものです。
自分がこれだけ○○してるのだから、理解してもらえるのが当然だ。
成果が表れて当然だと思い込みやすいですし、周りの人間の声に左右されやすいものです。
自分が貫こうとしている道は誤っていないのか。
もしかしたら正しいと思い込んでいるだけで、別の道に進んだ方が目的地点により早く到着するのではないか。
冷静さを欠けてしまった場面こそ、一度立ち止まってメンテナンスしてみることも大切になってくるものです。
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