第234回「野口英世の片思い失恋と忍耐から学ぶ」

2015年12月1日上手くいかない片思い野口英世


過去を変えることはできないし、
変えようとも思わない。

なぜなら人生で変えることができるのは、 自分と未来だけだからだ。


この言葉は、日本人なら誰もが知っているあの野口英世博士が残したものです。

上記の画像は、今から20年ほど前私が小学生だった頃に、福島の野口英世記念館で購入したものです。

当時、英世の人生を映画にした『遠き落日 』を観て、感銘を受けた私は英世に俄然興味を持ちました。

今でも辛い時、先が見えなくなった時に、寝室に飾ってあるこの忍耐の二文字を見て自分を鼓舞しています。

英世が生涯で好きだった言葉にこの「忍耐」「努力」「勉強」という3字だったそうです。

漢字の通りに、野口英世ほど忍耐と勤勉の連続だった人生はありません。

貧困家庭に生まれた英世は、生後1歳の時に自宅の囲炉裏に落ち、左手を大火傷してしまう災難に見舞われて、学校でもいじめに遭うなど不条理な思いを体験してきましたが、めげることなく忍耐を重ねてきました。

その背景には、誰よりも息子を愛した母シカや、英世の可能性を見抜いた恩師の小林先生の存在があったのです。

英世は支えを受けながら、報いるためにも勉強に力を入れました。

「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という生き方を模範にして、その言葉通りに勉学に励み、実行していたようです。

そして、晩成に功績を遺した姿からは想像しにくいですが、放蕩の限りを尽くしていた時期があったようです。

賭博、酒、女性狂いに興じていたようで、詐欺まがいの行為にも及んでいたのです。

英世が横道にそれてしまった要因の一つとして、大失恋の影響があるのではないかという説があります。

彼は弱冠20歳の修業時代に通っていた教会で出逢った、6歳年下の女学生(当時14歳)・山内ヨネ子に初恋をします。

毎週のように何度も恋文(ラブレター)を贈りましたが、当のヨネ子は困惑しており、恋愛対象として好意的に受け取っていませんでした。

しまいには、ヨネ子が通う女学校校長経由で教会牧師に連絡があり、英世は叱責を受けることになります。

今では言えばまさしくロリコンで、ストーカー行為と呼ばれていたことでしょう。

やむなく一旦中止したものの、その後医師免許を取るために上京した英世は、女医を目指して医術開業試験予備校に通っていたヨネ子と再会を果たします。

想いが再熱した英世は、ヨネ子の下宿先まで押しかけたり、研究用の頭蓋骨を贈ったり、2人の名字を刻んだ指輪を贈るなどして、求愛を続けました。

英世の一方通行の片思いは、なんと5年間にも及んだそうです。

片思いの終わりは、意中のヨネ子が別の男性と結婚したことを知ったことからでした。

野口英世は、過去との決別のために以下の詩を書きました。

「夏の夜に 飛び去る流星 誰か之を追ふものぞ 君よ快活に 世を送り給え」

意味:夏の夜空に飛び去る流星のように私から離れていったあなたを決して追いかけはしません。

どうかあなた元気にお過ごし下さい。

野口英世博士のあれこれより

長年報われない片思いを重ねていた英世の胸中がうかがえます。

それだけ継続してきた一本道を変えて、去る者を追わずの生き方を実践することは容易いものではありません。

けれども、その後には必ず新しい出逢いが待っているものです。

英世はその後渡米して、35歳の時に現地で知り合ったメリー・ダージスと出逢って結婚に至ります。

お互い変わり者同士という点で意気投合したようです。

メリーは研究に没頭する英世を献身的に支え、彼が51歳で生涯を閉じた後も、未亡人として71歳まで生きました。

英世が亡くなってからは、遺品は全て野口英世記念館に寄贈し、英世の遺志を継ぎ、家族と恩師の小林家に仕送りを続けたそうです。

英世が自分の人生を不遇な運命だと祟らずに、朽ち果てなかった背景には、母であるシカ、恩師の小林先生、メリーらの大きな支えがあったからでしょう。

どれだけ努力をしても変えられない過去と他人の気持ちを教えてくれる英世の人生は、時代を越えて学ぶべきところがあります。

2015年12月1日

Posted by TAKA